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​略史と歴代師範

大東流合気柔術は約900年の歴史の流れの中で、先人たちの厳しい血の滲むような研鑽を経て、他流では見られない、「気を合する合気の世界」に到達した武術である。

大東流合気柔術の資料で裏付けのとれる歴史的な沿革は不明であるが、当館では武田惣角先生の口述通り清和源氏 新羅三郎義光公を開祖に戴き、 その後甲斐武田家から会津藩御留流を経て、甲斐武田家末孫でもある中興の祖 武田惣角先生へと伝わり明治30年代以降世に広まったものとしている。

明治30年台~昭和初年頃にかけて武田惣角先生は1ヵ所に道場を構えることなく全国を行脚し講習会或いは個人指導形式で大東流を弘流した。 一説には門弟は延べ3万人とも云われ、教授代理にまで進んだ者も三十数名にのぼった。 

しかし往時の常で武田先生の指導は技を2~3回掛けてみせるだけで口頭での説明は無く、またその各々の人に合った技を教授したとされ、体格の良い者、力の強い者には柔術技(主に逆手、関節技)を、小柄な人、非力な人には合気技を教えたと言われている。

武田先生は何処かに本部を置いて流派を纏めるといったようなことはせず、また上記の指導方式で一貫していたため、大東流一門としての横の繋がりはほぼ無く、また師範(教授代理)ごとに技が異なることとなった。

そして其の伝系に連なる各派や与流が各々特色のある技法を伝承しながら現代に至っている。

当館は、武田惣角→堀川幸道→錦戸無光→豊田浩司 という伝系の大東流合気柔術である。

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武田惣角』先生

大東流中興の祖、称第丗五代・総務長。 旧会津藩出身、若年より剣術柔術などを修め、明治三十年代から全国を単身行脚して大東流を弘流した。 多くの場合講習会の形式をとって教授したが、その際その場に居る中で1番強い者を態々指名し、その者相手に技を示範し指導したと伝わる。 謂わばアウェーでもお構いなしに手の内も知れぬ強者相手に技を自在に極めて見せると云う、武田先生の並外れた実力と自信を示すエピソードである。

また上述の通り、武田先生は多くの教授代理を育てたが、彼らから数多くの大東流の分流支派が生まれた。その後その分流支派は他の武術や現代武道とも交わり影響を与えた。 そういう意味で今なお現在の武道界に少なからざる影響を与え続けている忘れられた偉人ともいえる人物である。

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堀川幸道』先生

は、父・堀川泰宗先生と親子二代で指導を受けた。堀川幸道先生は小柄で体力もなかったが流石に武田先生はその才能を見逃さず、愛弟子として特に合気の技(合する合気)を教え伝えられたといわれている。

後にその技の冴えを以て永世名人の称号を授与されている。また非常に達筆で武田先生の発行した巻物の少なくないものが堀川先生の代筆によるものである。

​堀川先生は僻地での学校教育に情熱を傾ける傍ら、後に北海道北見に幸道会を設立し多くの門弟を育て上げた。

そして武田先生直伝のその合気技は神妙精緻・剛柔自在で、その体は合気体として強靭に練り上げられていたという。

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錦戸武夫(号:無光)』先生

は、はじめ柔術の大東流を15年ほど修業し門弟も50人程いたが、昭和48年に縁により堀川先生と出逢い入門。師の合気をなんとしても掴まんがため上記の柔術を一切捨てて堀川先生に師事し、以来師より薫陶をうけ一般稽古のほか師弟一対一の厳しい個人指導をつけられ、ついに「合する合気」を掴むことを得た。

 

その後、九州福岡の地に大東流合気柔術光道を興し門弟を育成。

先年光道の道統は門人筆頭の古賀師範に譲ったが、合気への熱意は止むことなく、今なお後進の指導にも情熱を注いでいる。

​著書に「合気の極み」(BABジャパン刊)など

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